2013年4月22日月曜日

昨日の八重の桜ー遠ざかる背中

昨日の八重の桜は、日本中が徳川慶喜に振り回されているという描写が多かったです。もともと安政の大獄から始まる国内の混乱は、徳川慶喜の将軍にするかどうかということに端を発していて、昨日も長州征伐をするといった舌の根の乾かぬうちに和議に持ち込もうとしたりと、自ら味方を減らそうとしているところが彼にはあります。


徳川慶喜の評価については実に難しいのです。もともと彼は徳川家康の再来と言われて、その英明さが多くの人に期待をされ、反対勢力からは恐れられたという人物です。例えば、家定の後継をどうするかということで、国内は大揺れとなります。これはとどのつまり、徳川慶喜を将軍にするかどうかということが議題でありました。その政争に勝った井伊直弼は、大老になり、反対勢力を弾圧しすぎて、結局暗殺されます。また、薩長においても大変な人間が出現してきたということで、やはり大騒ぎになります。

ところが実際には慶喜は英明さを謳われても所詮お殿様なので、下々の痛みが全くわからない。そういうこともあって、明治維新においては殿様が政治に直接携われなかった直接の原因はここにあります。この辺りの機微は、明治維新で徳川家が駿府70万石の大名に堕ち、慶喜や旗本たちが駿府に戻り、旗本たちは大変な思いをしながら日々の生活をしていたけれども、慶喜は当時最先端のものであった自転車を乗り回していたそうですね。それに対して旧家臣たちは「貴人情を知らず」と言ったのは有名な話です。

また、慶喜は戊辰戦争で薩長側に錦旗が出たということで、徳川方が賊軍になるということを知るや、会津藩主松平容保と桑名藩主松平定敬を強引に連れて、家臣の誰にも言わず江戸に逃げ返ってしまった。家臣は将軍と殿様に置いてきぼりにされてしまい、これはいくら幕府側が兵数が薩長に比べて多いといっても、主将が自ら逃げてしまったわけですから、幕府方に厭戦気分が起きるのは当然のことです。また、江戸に帰っても、自分が連れてきた容保、定敬からも逃げて勝手に寛永寺で恭順の意を示してしまった。これでは容保も定敬も慶喜から離れるしかなく、このことも会津の悲劇を招くわけです。

ただ、一方で大政奉還という決断は、慶喜の自己犠牲によって成立したということを司馬遼太郎さんは評価してます。実際にこの大政奉還の宣言を後藤象二郎から聞いた坂本龍馬が、慶喜のために自分は死んでもいいと嬉しさのあまりに号泣したのは有名な話でもあります。

しかし、冒頭にも書きましたけど、徳川慶喜という人物は、幕藩体制全体に言えますが、徳川家康とちがって所詮お殿様だし、しかも徳川の連枝ということもあって、お坊ちゃんということもあり、修羅場には何も出来ないということがよくわかるし、それは下級武士だった西郷隆盛、大久保利通や、さんざん狙われ続けた桂小五郎らと対峙しても、かなわないということがはっきりしたという事実もあります。

ちなみに徳川慶喜を演じる人たちは、全般的に慶喜そっくりの人が演じます。誰が演じたかはこちらを見るとわかりますが、まず、本人。いい男だったと思いますね。

徳川慶喜
モックンの徳川慶喜

平岳大。こちらは篤姫の時の徳川慶喜。


小泉孝太郎。八重の桜での徳川慶喜。

3人とも大変なイケメンで、やっぱり実物の慶喜にも似てるのに、どうして西郷隆盛は吉川晃司なのか今でもわからん。