2013年5月27日月曜日

昨日の八重の桜ー敗戦の責任

昨日の八重の桜は、鳥羽伏見の戦いで敗れた会津を含めた幕府方が大阪城に戻り、再起を期そうとしていたところ、徳川慶喜が松平容保・定敬兄弟を連れて逃げてしまったという前代未聞の状況になってしまい、そのきっかけを作ったとされる神保修理が詰め腹を切らされてしまいました。


幕府の総大将である征夷大将軍徳川慶喜が、家臣に一言も告げずに敵前逃亡してしまったということもあり、家臣たちは憤激するのも当然で、客観的な立場で見るとトップの違いによって、幕府方は負けるべくして負けたという感じがしますね。ただ、慶喜が徹底抗戦をしていたら、日本はおそらく内乱状況になり、大変なことになっていたかも知れません。

幕府方の敗因の最大の原因の一つである慶喜の逃亡ですが、どうして慶喜は逃げちゃったのかということを少し考えてみたいと思います。このあと慶喜は、江戸に戻り、そのまま上野の寛永寺に引きこもってしまい、官軍に対して恭順の意を表明します。つまり、徹底的に降参したのです。

その原因になったのが、薩摩側に錦旗が上がってしまったからです。この錦旗というのは朝廷が官軍に対して渡すもので、それがない方は賊軍ということになり、日本の敵ということを朝廷が決めたことになります。従来朝廷などは力がなく幕府に弾圧されていたのですが、この頃の朝廷はバックに薩摩、長州などがいて軍事的な基盤がある。その朝廷から、徳川慶喜等が朝敵に指定されてしまった。つまり、これは歴史的に賊軍ということになり、それが徳川慶喜には耐えがたかった。

では、どうして耐え難かったかというと、これは慶喜が水戸徳川家出身であり、この水戸徳川家というのは水戸黄門で有名な徳川光圀が中心となって編纂した「大日本史」を発行している藩であり、この「大日本史」の性質が天皇家を敬うという史観に基いて書かれた史書であり、天皇家に弓を引いた足利尊氏を日本史上最悪の人物であると規定していて、慶喜は朝敵になることで第二の足利尊氏という汚名を着せられることに、大変な恐怖を覚えたわけで、そういうこともあって自分は朝廷には向かうものではないということを態度で示したのが、結局徹底的な恭順だった。

ただ、その将軍の徹底的な恭順は、朝敵の汚名をそそごうとした幕府や会津などは官軍に攻撃されるハメになるという反作用が起きてしまった。それは幕府からすれば、政権を返上したのにもかかわらず難題をふっかけられ、挑発され、将軍の汚名をそそごうとしている矢先に将軍自ら自分たちから逃げてしまったというのは、憤懣やるかたないという状況だったと思いますね。

神保修理の切腹については、気の毒としか言い様がない。実際に反幕勢力である坂本龍馬や伊藤俊輔(後の内閣総理大臣伊藤博文)からは、高い評価を受けていたということもあり、修理自身もどうして藩の連中は自分のことがわかってくれないんだという思いもあったように思いますね。彼が男らしかったのは、切腹を命じられても、何も抗弁せず黙って詰め腹を切らされたということですね。

戊辰戦争は最終的に薩長側が勝つわけですが、当初の兵力は圧倒的に幕府方が多かったのに、幕府方が大敗しました。その原因は、それぞれの側の指導者の差だったと思います。薩長側には何と言っても命を捨て切っている西郷、大久保、桂小五郎と言った人たちがいたけど、幕府方にはそれに匹敵する人がいなかったし、薩長側のほうが全体的にまとまり感があったと思いますね、幕府方はリーダーもいなかったし、それぞれがてんでバラバラなところもあって、負けるべくして負けた観があります。

八重の桜は先々週くらいから、会津イジメが露骨になってきて、この状況はまだまだ続きます。僕の友人は可哀想で見てられないと言って、昨日もあまり見なかったです。あとこういう状況は当分続きます。辛いな。