2013年6月10日月曜日

昨日の八重の桜ー会津を救え

昨日の八重の桜は、新政府は会津藩を朝敵にするということが決定し、それにともなって世の中が大きく動くというシーンと、新政府の象徴だったような世良修蔵が暗殺されるというシーンが印象的でした。

新政府がどうして会津を目の敵にしたかという点については、2つあげることができます。

まずは、京都守護職として京都の治安を会津は守ったのですが、その守る手段として新撰組を抱えてしまい、反幕側に特に反発されたというところがあります。新撰組はあまりにも京都で活躍をし過ぎてしまったということです。新政府側、特に長州や土佐派がどれだけ怒ったのかというと、近藤勇を斬首し、晒首にしたという点からも明らかです。通常相手を敬った場合の当時の処刑のスタイルというのは、切腹なんです。それを首を切ってしまったというところに新政府側の新撰組対する憎しみがよく分かるのです。ま、そういう新撰組を抱えたことで、会津は目の敵にされた。

もう一つは、徳川慶喜が逃げ切ったということです。つまり、当初は新政府と対決する予定でしたが、薩長側に錦の御旗があがったことで、慶喜は朝敵にされないようにとにかく恭順しまくる。徳川家を潰さないように(表向きは)ひたすら降参する。そこを勝海舟がイギリスと内通して慶喜助命運動に走ります。つまり、国際法上降参している敵を殺すことは禁止されているといったことや、もし本格的な内戦になった場合には自国民を保護するという名目で停戦のための軍隊を出すとまで新政府側にイギリスが申し入れていたりします。

薩摩としても、イギリスにここまでやられてしまうと、何も言い返せない。何故ならば、倒幕戦争をするためにイギリスから相当のお金を引っ張っていて、金主から慶喜の助命をされてしまうと、薩摩として面子さえたてば、慶喜を殺すまでもないというところになっていました。ただ、明治維新は革命ですから、旧体制を打破しないといけないということもあってそのターゲットが会津になってしまいました。

昨日のように世良修蔵といった、旧幕体制では身分の低い武士が各方面に派遣されてしまい、時代を背負っているという気負いが強すぎてやりすぎてしまう人は、新政府軍には多くて、それが元で事態が悪化した例というのはいくらでもあるのです。昨日の世良修蔵のケースもそうですし、昨日少し出て来ましたが対長岡藩に対しては、家老の河井継之助に対して土佐の岩村高俊が傲慢な対応をしたことで結局戦争になり、新政府軍は大変な戦いを強いられてしまいます。岩村にしても旧藩では身分の低い武士で他藩の家老に対して本来は対等に話すことは出来ないくらい身分の低い武士です。

このようにせらや岩村といった下級武士が、他藩の殿様や家老に対して偉そうな口を叩けるのは、背景に公卿の威光があるだけで、本来であれば同座さえ出来ない人たちに対して命令ができる事自体が、この

会津についても、結局そういうやり過ぎが会津を救わないといけないという状況が東北一体に広がり、結局奥羽列藩同盟が成立してしまいます。敵とのやり取りというのは、敵への敬意というものがないとなかなか相手も反発してしまうということが多く、そういう意識をもっていた薩摩人が、あまり血を流さずに事を収めたという例もあります。例えば庄内藩を処理した西郷隆盛や、箱館戦争を終了させた黒田清隆などは敵への寛大な処置をしたことで、結局戦いをそんなに血を流さずにおわらせることができたわけです。

この会津にはそういう人もなく、結局双方力技での激突ということもあり、来週、再来週は涙無くして見られないシーンがかなり多くなりそうです。