2013年5月6日月曜日

昨日の八重の桜ー尚之助との旅

昨日の八重の桜の一番大事なところは、何と言っても最後の最後に徳川慶喜が松平容保・定敬兄弟に対して、大政奉還をやってみようと思うというシーン。次回が慶喜の誤算というタイトルになりますが、この辺りが薩長が政権を奪取した機微があり、今日はこの話をします。

もともと大政奉還というのは、坂本龍馬が立案し、それを土佐の後藤象二郎が山内容堂に相談をして、これこそ、徳川を救う手段だということで、土佐の案ということで慶喜に提案したものです。

これに対して、薩長は武力で徳川を討滅するという方針を決めていたので、薩長首脳はこの案をものすごく迷惑がってました。ただ、現実的に徳川討滅といっても、薩長の兵力と幕府方の兵力は比較にならないくらい薩長のほうが少なく、少なくとも土佐が加担をしないと戦い自体が非現実的だということもあり、大政奉還を薩長が進めたという経緯があります。ちなみに薩長がどれだけ迷惑がったかといえば、坂本龍馬の暗殺は、薩摩が黒幕だったという説もあり、徳川家を温存しようとする大政奉還案は、政権転覆を考える薩長から見ると、とんでもないというところがあります。

この大政奉還案を薩長が迷惑がった証としては、明治新政府は土佐勢力をあまり優遇してないです。せいぜい板垣退助と後藤象二郎くらいが新政府の要職についたことくらいだし、板垣にしても本来は軍人として能力が高いにもかかわらず、政治家にしかしてもらえなかったわけで、そのあたりは、大政奉還の恨みが薩長にはあったんじゃないかなと思うのです。

で、大政奉還ですが、これは京都の二条城で宣言されたものですが、ここには去年京都に行った時に、二条城見学して来ました。



慶喜の悔し涙が残ってるんだろうかと思いながら、二条城内の廊下歩きましたが、何故慶喜があっさり政権を返上したのかといえば、源頼朝が鎌倉幕府を開いてから、700年以上武家が政治を担い、天皇や公家は完全に政治からは蚊帳の外におかれており、王政復古の機運が流れても、お前らには政治は出来ないだろうという肚があったからです。ちなみに坂本龍馬の人事案には、副関白として慶喜を新政権入れる案がありました。

実際に返上された朝廷は右往左往で、大変でしたが、その先を読む事ができる人物が、新政府側には数人いたため、結局は慶喜の肚は逆手に取られてしまい、王政復古の大号令がでて、慶喜は朝敵とされ、そのサポートをしていた会津や桑名までも朝敵になります。


具体的には朝廷は経済基盤が全くない。仮に薩長をあわせても100万石にもならず、幕府は400万石、さらに会津や桑名を加えれば500万石弱になり、そこで徳川の領地を寄越せと無理難題を言い、徳川方を薩長が挑発をするのです。その挑発をする側には、西郷隆盛、大久保利通、桂小五郎と言った日本史的レベルの人達がやっているので、結局その点でも幕府方は圧倒されてしまう。その流れで、会津は日本中から袋叩きに合うという運命になります。

司馬さんが、ひとつの政府がこれだけ弱い者いじめをするのは歴史的にも珍しいといってましたが、まさしくその通りで、特に松平容保の運命は実に気の毒。薩摩から捨てられ、職を辞したいと言っていた慶喜に認められず、その慶喜にも最後は捨てられ、結局1藩で日本中と戦うということになります。弱い者いじめを見るのが嫌な人は、当分八重の桜を見ないほうがいいかも。