昨日の八重の桜はさすがに泣けました。二本松藩については、丹羽家という徳川幕府においては外様大名なのですが、そういう大名の家が官軍の攻撃にあい、13〜17歳の少年が戦死してしまった。
ウンチクを語ると、この丹羽家という家は、元々は丹羽長秀という人物がいて、その人が家祖です。で、丹羽長秀という人はどういう人かというと、織田家の家老として柴田勝家に次ぐ織田家No.2でした。もちろん、豊臣秀吉よりも織田家では家格は上でした。
その後秀吉が天下をとり、その大名となり、そして関ヶ原の戦いで丹羽家は石田三成の西軍につき、家は潰されます。ところが、他の大名から徳川家へのとりなしがあり、丹羽家は大名として復活するのです。このことで、丹羽家は徳川家の絶対服従が家訓となり、代々それを引き継いでいるという家です。
穿った見方すれば、当時は周りには親会津藩の諸侯しかいなかったということもあって、丹羽家だけ新政府に服従するということは出来なかったのかもしれません。この辺りは僕の想像部分ですが。
昨日も、結局新政府軍の攻撃が二本松少年隊に向けられ、多くの若い命が失われた。彼らの供養も、これもおそらくですが、新政府に遠慮した旧二本松藩関係者たちは対象になってからです。時間的に言えば50年後に彼らは公に供養されたことになります。それだけ新政府の力が強かったということが言える。
ただ、判官びいきではありませんが、奥羽列藩同盟が結成されるけれども、結局最後は会津が叩かれるだけ叩かれた。しかも、会津藩は今の福島県からもっと北の斗南藩という青森の不毛の土地に強制的に移住させられた。
司馬さんがその著書の中で、ひとつの権力が歴史的にこれだけ弱い者いじめをして、それに対して良心が痛まなかったのは、恥ずべき行為だと書いてましたが、僕も全く同じように思いますね。ここまで行くと、可哀想を通り超えているような仕打ちを新政府軍は行った。
昨日も松平春嶽が岩倉具視と木戸孝允に対して、会津を許してあげて欲しいという建白書や会津自ら新政府に歯向かうものではないという申し出が来ているのに、ことごとく握りつぶして、どういう政治をやろうとしているのかという事を詰問しているシーンがありましたが、まさしくそういうことが新政府内であったんだと思います。会津の場合は、新撰組を抱えて、京都で反政府運動を展開する勢力を弾圧したのは、警察勢力としては当然のことであったし、ただ、やりすぎたということは無きにしもあらずですが、それは長州でも同じ事をしたわけで、この辺りは非常に微妙なところです。
これから悲劇は更に続くのですが、そろそろ、気持ちが明るくなるようなことも起きて欲しいと、わがままなファンとしては思うところで、山本覚馬がなんとなく活躍する雰囲気です。