司馬遼太郎さんの数ある名作の中で「峠」という名作があります。戊辰戦争において北越戦争で獅子奮迅の働きをした長岡藩家老河井継之助のお話です。Kindleに移植されたということもあり、早速読み返しました、河井の悲劇的人生を思うと、心が痛みました。
司馬遼太郎「峠」とは
まず、「峠」のストーリーをご存じない人に簡単にお話をすると、幕末時に官軍にも賊軍にも属さず、圧倒的な武力をもって自主独立をしようとした長岡藩家老河井継之助という人の話です。
何故、このような無謀なことをしようと河井継之助はしようとしたのかということを知るために、今回「峠」を読もうとしたのですが、やはりわからずじまいでした。河井継之助という人は、実に早い段階で武士の時代は終わるだろうということを確信していました。これがいかにすごいことかというと、当時武士の時代が終わると思っていたのは、幕臣では勝海舟、坂本龍馬くらいで、後は武士の時代を終わらせようとして奇兵隊の高杉晋作。「峠」にも書いてありましたが、もし河井継之助が反幕府系の藩、例えば薩摩や長州、土佐といった藩に所属をしていれば、相当な仕事をしただろうと書いているし、人物的には桂小五郎以上であるとまで評しています。
では、そこまで目の見える人間がどうして、自主独立を目指したのかというのは、この本を読むたびに僕が疑問に思うことでした。河井継之助が親幕府であるというのはわかるんです。それは長岡藩が譜代藩であり、藩祖の牧野氏は徳川家康が天下を取る上で、著名ではないにしても、大きな働きをしたということもあり、また、当時の長岡藩主の牧野忠恭が、徳川が大政奉還をして、薩長から無理難題を押し付けられているからといって、それに同調するわけにはいかないという考えの持ち主だったということも、河井継之助が薩長側につかなかったということに影響を受けたと言ってもいいでしょう。
「峠」の読書テーマはどうして河井継之助は自主独立を目指したのか
ただ、当時の時代の趨勢という点では、戊辰戦争が起きた時点で、思いっきり幕府よりだった井伊直弼の彦根藩や尾張徳川家などはすぐに薩長側に味方をしてるわけで、彼らから比べれば7万石しかない、長岡藩が自主独立路線を進めるというのがわからないのです。
もちろん、河井継之助が自主独立路線を進めようとした理由は分からないでもないのです。それは河井継之助が横浜で知り合ったファンブル・ブラントに影響を受けたということはあると思うんです。それはファンブル・ブラントは、スイス人であり、スイスがヨーロッパにおいて武装中立をしているし、雪山の中にある小国であるという地政学的なところに僕は強く影響を受けたような気がするんですよね。長岡藩もスイスのごとくやっていけば、当時の政府軍にも親幕府軍にも属せずにやっていけるだろうと。しかも、欧米の最先端の武器さえあれば、古い武器しか持たないところには負けないという気持ちもあったんだろうということです、河井継之助にしてみれば。
ただ、後世の読者である僕がこの本を読んで思うのは、意見が真っ二つに分かれていて、それが元で戦争状態になってしまっている以上、自主独立というやり方は、結局どっちつかずという状態になってしまうわけで、最終的には孤立せざるを得なくなります。しかも、河井継之助は最後の最後まで戦争をするつもりはなかったにもかかわらず、結局は戦争になってしまった。モノが見える河井継之助であれば、成功しないということはわかっていたはずだと思うのに、敢えて自主独立を目指したというのは、やはり河井継之助の中に自己矛盾があったんじゃないかという思いが凄くあるのです。
結局河井継之助が目指した自主独立は理解できず
結局北越戦争は、凄惨な市街戦になり、兵力が圧倒的に多い官軍に圧倒されて、長岡藩は敗退するという結果になってしまうんです。河井継之助はこうなることはわかっていたと思うんですよね。それでも獅子奮迅の働きをするにしても、ここで河井継之助は負傷し、そして長岡から会津に逃げる中で自嘲気味にうたったのが
八十里 腰抜け武士の 越す峠
という俳句で、非常に深い句ですよね。腰抜け武士というのは、北越戦争で敗退した自分のこともそうですが、やはり、本来武士が担ってきた戦争が、国民軍の様相を呈している奇兵隊らに負けてしまったという時代の流れに、武士でさえ流されてしまうという自嘲気味の心境を河井継之助は吐露したんだと思います。
河井継之助は、その後会津に移り、傷が悪化し、それが原因で亡くなります。モノが見える河井継之助は、若党の松蔵に棺桶を作ることを命じるんです。そこまで先が見える人がどうして自主独立という無謀なことをしてしまったのか。このことをテーマにした今回の読書ですが、やはり最後までわからずじまい。いつか時間があるときにでも、長岡にある河井継之助記念館に行ってみたいと今回改めて思いました。