明治維新というのは革命ですから、それに反抗したものはそれなりの制裁を受けます。一番わかり易い例で言えば、最近で言うとリビア。圧倒的な独裁者だったカダフィ大佐が、最終的には殴り殺されてしまった。明治維新では、会津が最後まで抵抗したというところもありますが、ボコボコにされたのは前回の記事でも書いたとおりです。
司馬遼太郎さんが、革命には陰謀がつきものだとよく著書に書かれいてるんですが、この明治維新での謀略を一手に引き受けたのが、公卿の岩倉具視と薩摩の大久保利通で、昨日の八重の桜ではよくその辺りは描かれていたと思う。想像するに、朝廷工作は公卿である岩倉が担当し、そのシナリオを大久保が書いていたんだと思います。
ちなみにウンチクを語ると、この二人をそもそも引きあわせたのは、土佐の中岡慎太郎です。元々は、中岡慎太郎が岩倉具視を発見して、その胆力に驚き、この人を革命に参加させないと倒幕は成就できないということで、多くの人に紹介したという経緯があります。中岡は京都の近江屋で坂本龍馬と一緒に暗殺されちゃいましたが、もし生きていたら大変な人になっていた。
革命にシフトした薩摩は、今回奸佞に描かれてます。確かにこういうところは実際にあったんだろうと思います。薩摩が革命にシフトした理由としては、
- 幕府と武力で激突しても勝てるだろうというめどがついた
- 時代は、幕府ではになえないという時代の流れを掴んだ
- 幕府側には西郷、大久保に並ぶリーダーがいない
ただ、この全体条件としては、幕府側が薩長と雌雄を決するという意識がないとダメで、もっと具体的に言えば徳川慶喜に薩長と戦うという断固とした決意があるということだったんだけど、昨日の八重の桜でもそうでしたけど、薩摩のやり方に、幕府側の下っ端連中が憤激をして、薩長と戦だ!と大騒ぎをしてましたが、こうなることが薩摩の思う壺でした。つまり、戦いにならないと幕府は倒せないということです。
この後、薩摩は幕府をどんどん挑発します。昨日、土佐の山内容堂と岩倉具視が言い合いをしてましたけど、これは徳川慶喜をどう処分するかということで、幕府の400万石を朝廷に返上しろというもので、他の藩には何も言わなくて、徳川慶喜だけを領地を返上しろというのはあまりにも不公平だというもので、これは至極当然の論理でした。これも、徳川を怒らせて、戦いに踏み切らせる戦略だったわけです。ちなみにこの会議を小御所会議と言って、歴史的に有名です。ここは去年京都に行った時に、たまたま京都御所の中に入ることが出来たので、写真を撮って来ました。(もし違ってたら、申し訳ないです)
薩摩の挑発はこれだけに限らず、江戸でも薩摩があからさまに混乱を仕掛けている風に色々なことをやって、幕府方を怒らせて、結局薩摩藩邸を焼いてしまうところまで言ってしまい、これで薩摩に倒幕の口実を与えてしまった。こういう雰囲気に持っていったのが、西郷さんであり、大久保利通であり、こういう芸当が出来るのもこの二人しかいませんでした。
ところが、徳川慶喜は薩摩のそのやり方を背景を見ぬいていたので、その後幕府勢力が大阪城に結集しても、慶喜自身は戦わずに、松平容保・定敬兄弟を連れて、江戸に逃げてしまいますし、その後容保らを裏切って、上野寛永寺に籠って官軍に対して恭順の意を表明してしまいます。官軍側としては振り上げた拳の持って行き場がなくなり、結局それが会津の方に向いてしまったという経緯があります。
このように官軍側にも当然正義というものがあるんだけど、会津側に立って歴史を見てみると、薩摩は目的のためには手段を選ばないというところがあって、よく司馬さんは著書の中で、薩摩から見たら長州や会津は子供だとよく書かれていますが、たしかにそうだなと思います。
来週から八重の桜は戊辰戦争が始まります。公式サイトでも、前半の最大の山場と出てましたが、歴史的にも大きな転換期になるので、大変面白い時期になって来ました。来週も楽しみです。