2013年5月9日木曜日

幕末明治の会津について「街道をゆくー白河・会津のみち」

司馬遼太郎さんの小説という範疇に入る作品の中で、明治維新モノだと土方歳三を書いた「燃えよ剣」と長岡藩の河井継之助のことを書いた「峠」くらいが幕府側の内容だと思うのですが、司馬さん的には薩長による明治維新というものを肯定してます。僕も政権が東に行ったり西に行ったりというのを見ていると、必然的な流れだったのかなと思うし、飛び抜けた人材ということを考えると、やはり薩長のほうが優れた人物が出たと思います。

今、八重の桜が日曜日にやってるわけですけど、会津の運命というのは実に悲惨なんです。それはこのブログでも書いてきたのですが、そのあたりをうまくまとめている司馬さんの本があって、それは彼の紀行文である街道をゆくの「白河・会津のみち、赤坂散歩」という本です。

保科正之
この本を読んで会津という藩が結果的に貧乏くじを引かざるをえな買った理由をあげてみますね。この辺りを読んでると、八重の桜をもっと理解しやすくなると思う。
  1. 藩祖が保科正之で、徳川秀忠の子ということもあり、徳川家に対して特に忠誠心が強く、そのことが会津藩を拘束した
  2. 藩の教育がしっかりしていたので、国事にこき使われた
  3. 京都守護職の就任
特に3番目の京都守護職は再三断ったにもかかわらず、幕府としても他に頼むところもなく、結局会津は受けざるを得なかったわけで、この辺りを司馬さんは
会津藩はその後の運命を当初から予感し、承知のうえで凶のくじをひいた。史上めずらしいといえるのではないか。
確かに断って断って、それでもうるさいから仕方なく受けるという態度を取れば、頼んできた方に対して大きな貸しを作ることができるし、その貸しでこちらの動きを有利に運ぶことが出来るはずなのですが、会津はそういうことを一切しなかった。司馬さんは、こういうところに対しても
政治・機略・策謀といったことは、会津藩のにが手としてきたものであった。初代以来、幕府の行政に参加したことがあっても、政治的な動きをしたことがなく、その感覚を持ち合わせていなかった。いわば生真面目すぎる藩風だった。
結局、会津戦争で会津が降伏をするとその後会津はどういう運命になったかというと、
  • 鶴ヶ城が落城して松平容保が降伏
  • 処分がきまるまで藩主及び藩士団は猪苗代と塩川の地に謹慎を命じられる
  • 会津藩全体を下北半島に移動させ、斗南藩とした。
この斗南藩は3万石と言われているが実際には7千石程度でここに強制移動させられ、塗炭の苦しみを味わったと言われてる。

柴五郎
この状況に対しては、会津出身の軍人で柴五郎(万延元年5月3日(1860年6月21日) - 昭和20年(1945年)12月13日)という人が晩年に文章を残していて、
(鶴ケ城)落城後、俘虜となり、下北半島の火山灰地に移封されてのちは、着の身着のまま、日々の糧にも窮し、伏するにも褥なく、耕すに鍬なく、まこと乞食にも劣る有様にて、草の根を噛み、氷点下二十度の寒風に筵(むしろ)を張りて生きながらえし辛酸の年月、歴史の流れに消え失せて、今は知る人もまれとなれり。
柴五郎という人は、軍人としても優れていて、何よりも誠実だったということから清国人に称賛され、本来会津人なので大佐までにしかなれなかったのに、この国際的な名声で大将まで登りつめた人物です。

彼の場合は、8歳の時に明治維新が起こったので、会津の悲惨な運命を体現しているわけです。実際に彼の家族は、会津戦争で祖母、母、叔母、姉妹が自殺をしています。残った家族で斗南藩に移動している。

この政府の会津地方への仕打ちに対しては、司馬さんは以下のように述べられている。
権力の座についた一集団が、敗者にまわった他の一集団をこのようにしていじめ、しかも勝利者の側から心の痛みも見せなかったというのは、時代の精神の腐った部分であったといっていい。
僕も本当に全く同感です。このあたりは、幕府側に徹底的にやられた長州藩と土佐藩の意思が特に強く作動している感じがします。

晩年の松平容保
悲惨だったのは、会津藩の人だけではなく松平容保という人も実に悲惨でした。容保のことは「王城の護衛者」という本に詳しいですが、冒頭にも書いた通り
  • 京都守護職を断ったにもかかわらず、様々な理由付けで受けざるを得なかった
  • 新撰組を抱えたことで反幕府側から憎悪の対象となった
  • 鳥羽伏見の戦いが始まると、徳川慶喜に翻弄
  • 共に大阪城から江戸に逃げ帰るも今度は徳川慶喜にも裏切られる
八重の桜でも描かれていましたが、容保は孝明天皇にとても信頼された。当時の天皇の周りは、三条実美といった過激公卿と長州がいて、好き勝手なことをしていていたので、実直な容保を信頼したんだろうと思います。そういうこともあって、容保は朝廷への尊敬心は大いにあったはずなのに、朝敵とされた時の容保の心情を思うと胸が痛みます。

容保は死ぬまで首に竹の筒のようなものをかけていて、それが何かと言うことは本人も語らず、本人も語らないために周りも敢えて聞かなかったそうです。容保の死後、その竹の筒を開けてみたら、その中には孝明天皇の宸翰が入ってました。宸翰というのは天皇直筆の手紙です。これを容保は常に肌身離さずもっていたところに、彼の悲劇的な半生を感じます。
このように幕末明治の会津は実に悲惨なんです。このあたりの状況を、司馬さんの「街道をゆくー白河・会津のみち」にはよく書かれています。非常に読みやすいのでお勧めです。