2013年7月15日月曜日

昨日の八重の桜ー自慢の娘

昨日の八重の桜では、相変わらず政府軍から攻撃されるシーンが続き、弱者の悲劇がそろそろ見る方にとってもお腹いっぱいの状況になって来ました。NHKは攻撃される会津藩が反撃するシーンを一つの山場にしようとしているんでしょうが、ちょっと間延びしてきた感じもあります。

ここ数回会津戦争について見てきたわけですが、会津藩首脳は鶴ケ城に籠城して敵を迎え撃つという戦略を立てていたわけだけど、今更ながら思うのは、会津藩は何故前途多難な道を選んだのかということ。

後世から歴史を見るということは、結果を知っているので誰でもが評論家になりうるわけですが、疑問点がいくつか湧いてきます。
  1. 何故籠城したのか
  2. 松平容保の首を差し出さなかったのか
という点です。

まず、籠城作戦については、普通戦いをするときには、救援ということを前提で城に籠ります。戦国時代で言うと、羽柴軍が清水宗治を城主とする鳥取城攻防の戦いがありました。こちらは、清水宗治は毛利が救援に来るということが大前提で、籠城をしました。そのため、羽柴軍は毛利が救援に来られないようにいろいろなことをした。また、西南戦争でも、谷干城が熊本城に籠城をしましたが、こちらも味方が救援に来るということを大前提で籠城をしました。

ところが、会津については奥羽列藩同盟というものがあるにしても、結局は周りはすべて敵であり、籠城しても食べ物が減っていくだけであり、完全に孤立無援の状態。その中で戦うというのは集団自殺に近い状況としか言い様がない。もちろん、会津が薩長にぬれぎぬを被せられているからそれを取り除くためという大義名分はあるにしても、そのために藩が滅亡するというのはどうなのかという疑問があります

二番目は西郷頼母が散々恭順しろということで、容保や藩主脳と対立をしました。この場合、お殿様を助けるか、家臣を助けるかということで究極的な対立になると思うのですが、頼母の場合は当然家臣を助けるために藩主を含めた藩上層部が責任を取るという手段だったと思いますし、僕も頼母の方が正しいと思います。こちらも戦国時代では殿様が腹を切ることで、家臣の命だけでも助けるということは、そこそこ事例があります。前述の清水宗治にしても、そうでしたし、三木城の別所氏もそうでした。自分が死ぬことで家臣を守るというのは、殿様として当然の役目。それを進言した頼母を追放してしまった会津藩は、この時点でもうダメだったのかなと最近思うようになりました。

来週は会津が降伏します。どういう描写が描かれるのか大変楽しみです。